非日常が日常になるとき

わたしは長らく海外に暮らし、大学の頃には交換留学もした。
海外暮らしというと、刺激に満ちた非日常的なイメージを思い浮かべるが
初めの頃こそ毎日が発見、毎日がドキドキ、であっても
1年2年と続けていくと、それは日常になる。
ある時、いつ頃だろう。急に日本がノスタルジックに見えはじめるのだ。
海外=非日常、日本=日常、が逆転する瞬間だ。

わたしの個人的な経験によると
だいたいそれは、半年頃、5~6ヶ月を過ぎる頃に起こる。
大学4年のとき、アメリカに10ヶ月間留学した。
6月に渡航。初めはすべてがめずらしく、夏の大学のキャンパスは
緑の芝生も青空もキラキラと輝いて見えた。
それが10月頃だろうか。新学期が始まって少し経ったころ
とたんに色あせたのだ。

何をしてもつまらない。授業も楽しくない。英語で何を言っているのかわからない。
疎外感とホームシックが一気に押し寄せて、いつでもどこでも眠れるわたしが
ついぞ不眠になってしまった。
季節は秋。キャンパスの木々は色づき始め、さわやかな季節なのに
それを楽しむ余裕もないくらい鬱々していた。
日本の母に泣く泣く電話し、心配した母は、わたしが子どもの頃好きだった絵本の絵を描いた
励ましのポストカードを送ってくれた。
そんなこんなで、なんとかその時期を乗り切ることができ、普通に寝られるようにもなった。

それからは、身の回りのすべて、アメリカでの生活自体が「日常」になった。

「ギルバート・グレイプ」という映画がある。
ジョニー・デップ主演の、アメリカ中西部の田舎町を舞台にした映画だ。
街のコーヒーショップで食べるしなびたモーニングセット、
垢抜けないウェイトレス、狭い人間関係、刺激のない平和すぎる町。
ジョニー・デップはこの町で、障害を持つ弟や太りすぎて動けない母の世話をして
閉塞感を感じながら生活をしている、という設定。
そこにキャンピングカーで旅をしながら全国を回っている、風のように自由な女性に出会い…
と話は進んでいくのだが、それはさておき。
日本で見た時には「朝食おいしそう~。こんなカフェで食べたい!」なぞと思い
ジョニー・デップの気持ちはまったくピンとこなかった。

しかし、これをアメリカで、滞在半年を過ぎた頃にふたたび見たとき
まったく違う見方をしたことに、自分で驚いた。
ジョニー・デップの感じる閉塞感が、全身で理解できたのだ。
この「どこにでもある感」「超普通感」「毎日これが続いていくのね感」。
素敵に見えたカフェも「どこにでもあるカフェ」に取って代わっていた。

たった1年弱しかいない留学生が、こんなこと言うのはおこがましいだろう。
でも、憧れだった非日常が日常に転じたことを体感した、貴重な体験だった。

けどきっと、そこからなのだ。
本当の意味で、その土地の空気を吸収し始め、そこの人間になるのは。
もちろん自分は日本人で、結局は通りすがりの「お客さん」だ。根を張る者ではない。
でも少なくとも、そこの日常を体で知り、刺激や楽しさ以外の側面を受け入れながら
「生活者」と言えるようになるには、そのつまらなさを感じてからなのかもしれない。

人は非日常を求めて遠くへ行く。でもいつかは、その遠くも日常になる。
そうわかっていても、遠くに憧れを抱き、夢を見てしまう。
人生はその繰り返し…なのかもしれない。


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by toi-tom | 2018-03-27 14:07 | 海外つれづれ | Comments(0)